覚醒メモ③ ~見える世界が変わる

>>覚醒メモ① ~ほどける松果体

>>覚醒メモ② ~質的転換

続きを書く前に、念のため・・・

「覚醒」って、何か特殊なもの(天使とか?)が見えたり、神的な声が聞こえたりなど、そういうことではないことは、ご存知ですよね。
辞書を引くと「目が覚めること、迷いから覚め過ちに気付くこと」とあります。

 

ここで私なりに定義しているものを、書いておきますね。

「覚醒とは、自分の状態、周りの環境を意識的に観察していること。

良い悪いなどフィルターを通してでなく、そのままを見ていること。

それぞれをジャッジすることなく、違いを楽しめること。

生き方を定めて、目的意識(志)を日常に反映していること。」

「覚醒」という言葉をいきなり使い始めちゃったので、書いておきました。

さっぱり(?)したところで続きです。

 

松果体を中心とした脳内の変化と同時に、見え方の変化もありました。

視点は一点に定めているけれど、同時に全体が見えるのです。(観の目というらしい)

今までいかに「顕微鏡で世界を覗くように」一点集中して見ていたか、ということに驚きました。

新たな見え方は、実は站椿における目線の訓練のひとつでもあります。

できていると思っていたら、できていなかったんです。

 

そして今でも、世界を鮮やかに映し出しています。

まるで2Dから3Dに変わったような

荒い画像から4Kに変わったような

全ての輪郭が際立ち、草木一本一本、葉まで立体的に見える

全てが同時にそのままにある、といった感じです。

とても新鮮な感動で、世界を見ています。

 

そしてこの見え方にシフトし、また脳内を内観すると、血液が後頭部へ集まっているんですよね。

今まではおでこの方に集まっていたのです。

この血液の流れは、非常に気持ちが良いのです。

同時に心の変化もありました。

穏やかで平和な気持ちが持続しています。

これがスピリチュアルでよく言う、ワンネス感覚というのでしょうか。

 

もちろん今まで大地と繋がる、丹田を中心としたどっしり安定感、安心感はありました。

そこへさらに輪をかけて、平和な思いが内側から涌き出るようなのです。

やはりおでこに血液が集まっていると、攻撃的になるんですよね。

意識的におでこに集中させようとすると、頭が混乱するんじゃないかってくらい、気持ちが悪いです。

後頭部への血液の流れの感覚を知ってしまうと、もう戻れないですね。

あまりにも気持ちが良いので。

平和な心持ち、血液の流れ、目線の使い方は連動していたんですね。

 

ここまで覚醒について、私に生じた変化と発見を書いてきました。

きっとこれで終わりではなく、始まりなのだと思います。

振り返って感じることは、体感を強く感じること、身体の変化、心の変化、人生の変化は、全てがセットだということです。

心だけ、身体だけとバラバラでは、変容しないということですね。

 

前回も書きましたが、私のプロセスは誰でも「安全に」覚醒にいたるものです。

内観を伴った「いのち」と結び付いたボディーワークの重要性は、身をもって感じるところでもあります。

今までの私の経験を共有していくこと

本気で変容し自分の人生を生きたい方へ、お渡ししていくこと

また新たに身を引き締める思いで、強く腹に落ちたのでした。

覚醒メモ②~質的転換

前回の覚醒メモ①の続きです。

魂が身体という社(やしろ)に納まったといえども
それをしっかり定着させ、括り付ける必要はありました。
これでやめてしまったら、快苦、ポジティブとネガティブで揺れ動く二元の世界へと、後退するであろうことは感じていました。
自分がバラバラな状態に「もう二度と戻りたくない」という気持ちも強かったのです。

何度も何度も站椿により、こころと身体を揃え
自身を内観していく作業は、一見地味で辛い修行に感じるかもしれません。
しかしこのプロセスでの確かな成長を味わい、「結果的に」多くの収穫がありました。
(このあたりは今までブログに書いてきましたので割愛します)

今までの取り組みは、覚醒に至るまでの基礎を固めるようなものだったと思います。

それはエネルギーの量を増やし、質を高め、燃焼を良くし、
エネルギーの器である、身体を強くすることでした。
やっと質的転換というのは、こういうことだったのか!という感じです。

私はスピリチュアルにどっぷりだったころ、覚醒すること、無になること、サイキック的な能力をのばすことを目的としていたんですよね。
まあ「欲」ってやつですよね。
その欲には、いろんなものが吸い寄せられてきますからね。
そして、エネルギー枯渇状態に陥ったわけです。

この2年半あまりの私のプロセスは、「安全に」覚醒にいたるものであると思います。
そして、誰にでもできることです。(意志さえあれば)
特に覚醒を欲していたわけではなく、ただ集中して取り組んでいたら「結果的に」なったものです。
妄想の入り込む余地のない、現実的に体感が強く伴うものです。

あれだけ怖がりシャットアウトしていた、スピリチュアルの世界はもう大丈夫です。
魂がどっかりと自分の中心にあるから。
しっかりと大地と接続されているから。
自分の目で判断できるから。

闇の部分を見てきたし経験もしましたが、何にでも光と闇の部分はあるものです。
良い悪いもないと、今では思います。
違いを分かったうえで、自分が選択し活かしていくかが大切なんですよね。

そして大事なことは、他者から、どこか崇高な存在から、もらった答えではないということ
全て自分の中から気付き、発見し、答えを得たものであることです。


また覚醒したからこれで終わりではなく、ここから私の本番が始まるのだろうと感じています。
螺旋のように上昇していくものですからね。

そして、脳の体感に伴って、もうひとつあります。
それは、見える世界が変わったことです。
視界が変わっちゃいました。

それについてはまた続きます。

 

覚醒メモ①

熊野合宿以降、私の中で大きな変化があったので
自分の記録のために残しておこうと思います。
またこれを読む方にも、何かしらのきっかけにもなればとも思います。

熊野から日常に戻り、またいつものように朝のボディーワークをしていました。
站椿(たんとう)をしていると、脳内がむぎゅむぎゅ動く感覚がありました。
これは今までの練習では無かった体感です。
それまでは脳の中より、延髄部分の爽快感がありました。

熊野から戻り一日目、二日目はなんか動くなあという感じでした。
三日目にはスコーンと何かが抜けるような感覚が起こり
なんとも脳内が気持ちが良い!のです。

例えていうなら、何日も便秘だったのが開通した後のようなスッキリ感です。
(こんな例えですみません)
脳の中のどの部分か内観してみると、間脳あたりでした。
そこがまるでスペースが空いたようで、スッキリ爽快感!
なんだこれ!でも気持ちいい!

しかも站椿を終えても、そのスッキリ感は絶えず持続しています。
さらに内観してみると、どうも松果体を中心に何かがほどけたようです。
イメージ的には固い蕾が、ふわっと花開いたよう。
今までどれだけ、ギューッと小さく縮こまっていたのでしょう。

松果体については、メラトニンを作るくらいしか知識が無いのですが、
感覚的には第三の目と関係しているような・・・。
これは感覚的なものだけなので、また調べてみようと思います。

松果体を中心とした体感が起こると同時に、私の中でひとつのブロックが消えたのがわかりました。
私、今までスピリチュアルやサイキック的なものを、シャットアウトしてきたんですよね。
(このスピリチュアルブームと逆行して笑)
それが、そろそろ受け入れてもいいんじゃない?というのが、奥から湧き出てきました。

はい、このタイトルにもつけましたが「覚醒」という言葉を使うことさえも、嫌だったんです。
友人に言わせると「相当、頑なに」拒んでいたそうです。

以前の私は、スピリチュアルな世界にのめりこんでいました。
でものめり込むほどに、自分がバラバラになっていったのです。
自分の考えさえもわからない、常に頭にもやがかかっているような状態でした。

視える人によると、身体から魂が部分的に離脱していたそうです。
それが本当かどうかわかりませんが、不安定だったのは確かです。
身体がとにかく動けない、エネルギー枯渇状態でした。
簡単に、自分ではない他者に明け渡してしまっていたような状態でした。
これが2年半前のこと。

そこからスピリチュアル的なことはシャットダウンして
ボディーワークに専念してきました。
特に站椿は時間をかけて取り組みました。
一番大変だったのが依存体質からの脱却でした。

取り組み続けるうちに、頭にかかっていた「もや」が取れて、自分の考えがはっきりしてきました。
身体がどんどん丈夫になり、まともに日常が過ごせるようになり
身体の力が上がると同時に、こころも強くなっていきました。
少しずつ少しずつ変容を重ねていきました。

約一年前、大きな変容がありました。
(仮面の女神に出会ったのも大きかった)
はっきりと心と身体が結び合い、魂が響き始めたのがわかりました。
この時期は、ちょっとしたことで心が震えて(感動して)泣いていましたね。

この時、魂が身体という社(やしろ)に、完全に納まったのだと思います。

長くなったので続きはまた。